私はメインパソコンにWindowsを長年使っています。あるきっかけでiPadも使うようになり、携帯はiPhoneを使っています。
初めてiPadやiPhoneを手にしたとき、相当に疲れたことを思い出します。
Windowsでも設定などは必要です。しかし、ダウンロード、インストール、プロパティなどの画面からマウスでクリックしながら行う作業は、洗練はされていませんが、作業する主導権が自分にあり、機械をコントロールしているという実感を得やすいのです。
iPadを初めて触ったときは、ウィンドウを閉じる☓マークがなかったり、画面を指でなぞる操作など、分からないことばかりで相当イライラしました。まるでスティーブ・ジョブズが画面の後にいて「うちではこういうインターフェース、操作以外は認めんよ。こっちに合わせてもらわないと」と言っているような気がしたものです。
おそらく、この「人が作ったシステムにこちらが合わせる作業」に疲れてしまったのだと思います。
そこでは、もう自分が機械をコントロールしようなどと思わないで、そのシステムにすべてをゆだねてしまえば楽になります。さすがによく考え練り上げられてきたシステムなので、ストレスはなくなります。
なぜ楽になるのか、それはシステムが「考えること」を肩代わりしてくれているからではないか。Windowsで自分でクリックして行っていた「選択・判断」という作業が、Apple製品では「システムが最適解をあらかじめ決めてくれている」ため、ユーザーは思考をゆだねてしまうことで迷いがなくなるのです。
でもこれって大げさにいうと、機械を扱う人間の敗北のような気がするんですね。そんな風に思ってしまう自分は、テクノロジーについていけない前世紀の遺物というのかもしれないな、とも思います。
こんな風にして、私たちは知らず知らずのうちに、機械に合わせることに慣れていきますが、それは子どもたちの世界にも広がっているように思います。
昨今では、絵本をタブレットで読むこどもたちが増えているようです。
しかし、絵本という物体を手で持ち、本の重さや紙の匂いや手触りという五感を感じながら読む「絵本」というものが消えてほしくないと思っています。