Paskel’s blog

■以前、別のブログに書いていた「学び」をテーマにした文をここに保存していこうと思います。■

絶望と希望

中3の国語の教科書の冒頭に森崎和江氏の「朝焼けの中で」からの文章が載っています。
著作権のことがありますから、怒られたら削除します。改行位置変更しました。
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 八つか九つくらいの年頃だった。
朝はまだひんやりしていた。私は門柱に寄り掛かって空を見ていた。
朝日が昇ろうとしていたのだろう、透明な空が色づいていた。
朝早く戸外にノートと鉛筆を持ち出して、私はなにやら書きつけていた。
が、空があまりに美しいので、その微妙な光線の変化を書き留めておきたく
なって、雲の端の朝焼けの色や、雲を遊ばせている黄金の空に向かって
感嘆の叫びを上げつつ、それにふさわしい言葉を並べようとし始めた。
けれどもなんという絶妙な光の舞踏・・・。
 私はあの朝、初めて言葉というものの貧しさを知ったのである。
絶望というものの味わいをも知ったのだった。自然の表現力の見事さに、
人のそれは及びようのないことを、魂にしみとおらせた。
打しおれる心と見事な自然の言葉に声を失う思いとを、共に抱き、涙ぐむよう
にしていると、父が出てきて、笑顔を向けてくれた。
 何を話してくれたか、もう記憶にない。ただあのときの強い体験にふさわしい
ようないたわりが、父から流れてきたことだけが残っている。
空が白くなり、人間たちの朝が動いていく気配が満ちた。
 いつのまにか文筆に関わって生きてきたけれど、言葉に対する私の感じ方
の中には、あの朝の体験が深く広がっているようである。それは人間たち
の深々とした生の営みの中で、言語化されている部分の小ささ、貧しさへ
の思いである。いや、まだ言葉になっていない広い領域のあることに対する、
いとしさである。
 言葉は朝焼けの中の八歳の少女のようだ。
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美しい文ですね。
言葉の限界を書きながらも、そこに綴られる言葉の見事さ・・・。
(ここからは蛇足です)
 言葉の小ささ・貧しさに絶望すると同時に、言葉になっていない領域が存在することに、いとしさや可能性を感じるというのですね。
 例えば、友人と一緒に映画を観に行ったとします。その映画が圧倒的な力で自分を打ちのめしたとき、映画が終わってもドーンと心に様々な思いが満ちているとき、友人が「どうやった?」と感想を聞いてくることがあります。必死に自分の思いを伝えようと言葉を発するのですが、言葉にすればするほど、本当の思いはそこからこぼれ落ちていく・・・そんな無力感を感じることがあります。
 言葉に絶望する瞬間、しかしそれは同時にまだ言葉化できていない世界を実感するときなのですね。
 そして、さらなる言葉の可能性、希望をそこに見出すことができる。壁を作った瞬間に、壁の向こうが存在するように、人生のどのような瞬間でも絶望を感じたとき、その瞬間、その向こうに希望を見出すことができるのではないか、と思います。